不登校でお悩みの家族の方に

人間関係

不登校は、本人はもちろんですが、一緒に暮らす家族の苦労も大変なものです。
初めて体験すること! 考えてもみなかったこと!
その状況に私たち親子と家族が取り組んだことを書いてみました。
少しでも参考になれば幸いです。

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娘の不登校を経験して

始まり

小学校を卒業するまでは友達も常に居て、参観日に行くと、
友達を連れて私を出迎えてくれる、そんな明るい娘でした。

中学校に入学して吹奏楽部に入部。
1年生の途中までは演奏会にも行き、学校を休むこともなく、
普通に学校生活を送っていると思っていました。

1年生が終わる頃から、学校でのことを聞いても話をしたがらなくなり
1年生の終わり頃にあった課外授業を最後に不登校が始まりました。

原因は、同級生の心ない陰湿なイジメだということが、後になってわかりましたが、
この時は原因の追究はしませんでした。

父子家庭だった我が家は、離婚後は、娘の祖父母(私の父母)と同居していて、
当時 朝になると学校に行かないという娘に、
理解できない年代の祖母が、
「なんで?どうして?変な子だね!」という冷たい言葉を浴びせたものです。

私自身も偉そうなことは言えなくて、学校に行かないなんてありえない!
と育ってきた世代なので、理解できない出来事に、娘にはつらい思いをさせてしまいました。

話し合い

中学2年生の初めの頃から、朝になると「学校に行かない」という娘。
その頃は、なんとか行かせようと、叱って送って行ったりもしました。

不登校ということの、認識も知識もないのがその頃の私でした。

今ならネットである程度の知識だけは簡単に調べることができますが、
当時は、スマホはおろか、SNSも万人には確立されてはいませんでした。
今のように気軽にネットで何でも調べられる時代ではなかったということです。

不登校について誰かに聞くということは、思いつきもせず、
むしろ、聞くこと自体恥ずかしいという感覚でした。
今思うとずいぶん回り道をさせてしまったと後悔ばかりです。

娘と、不登校について、話し合うようになった正確な時期はよく覚えてないのですが、
なぜ話し合えるようになったかは、父子家庭だったということが、かえって良かったのか、
娘は、父親を毛嫌いすることがなかったということが、幸いしたのだと思います。

3歳から行動を共にして、寝る部屋も一緒にしてきました。
生計には苦労もありましたが、家族の助けがあり、私が自営業だったということで、
一緒に過ごす時間が取れたということです。

娘が自分から不登校のことを話してくれたのは、こんな積み重ねと背景があったからだと思います。

親は向き合うのではなく、同じ方向を向いて

娘と話し合った結果、「学校には行かなくていい」という結論に達しました。
学校で人と接するのが怖いということ、特に同級生に対しては、ひどい状況だということでした。

無理をしてまで学校に行かないと決めたからには、
親子で今後のことを、今まで以上に細かく話し合うことにしました。
とにかく一緒に考える‼
親が あーしろ、こうしろと一方的に言うのではなく、今、娘がどうしたいのかを話し合いました。

今まで一方的に、こうしなくちゃいけない、こうやって当然ということを、
いっさいやめにしました。
そして、娘に、
「お父さんも変わるから、お前も少しづつでも前に進んでほしい」と約束をしました。
これが、娘と向き合った会話ではなく、同じ方向を向いて一緒に変わって行こという会話でした。

もちろん簡単なことではありませんでした。

次のような、ごく単純なことを決めて不登校の生活は始りました。

最初に決めたこと
  • 学校に行かなくても、朝は学校に行く時と同じ時間に起きる
  • 食事は決められた時間に、みんなと一緒にする
  • おばあちゃんの手伝いをする

支援者

娘の不登校を経験して、不登校を公言する人は少ないのですが、
世間では私が思っていた以上に、不登校経験者が多いということを実感しました。

でも誰かに知ってもらうことで、相談することで、たくさん助けてもらうことができました。

家族

やはり家族の理解を得ることは大切なことです。
我が家は、当時娘の祖父母(私の父母)との4人暮らしでした。

初めの頃、特に祖母には理解してもらえませんでした。
学校に行かないなんてありえないこと。単なる娘のわがまま!と。
しかし、娘と二人で決めた今後のことや、不登校の世間の現状を気長に説明して、
少しづつですが理解してもらえるようになりました。

娘は、出歩くのが好きではなく、遊びに行って家に帰ってこないとか、
夜遊びをするということはなく、どちらかというと引きこもりという不登校でした。

一日中家にいて、自分の部屋でゲームをしたり、漫画や絵を描いたり、
何かしら小説らしきものを書いていたと聞いています。

ずっと家にいて、娘の自分勝手な振る舞いに、祖父母は腹を立て、
その腹を立てた祖父母と私が言い争いになったことが何度もありましたが、
家族の理解を得ることは大きな力になります。

家族だから言えること
家族だから頼れること
家族でないとできないことがあります。

不登校の前兆など、家族でないと気が付いてあげられません。

娘の友人

小学校の時の友達は引っ越したり、学校がちがったりして、
中学校の時、悩みをうち開けるほどの友達がいなかったんだと思います。

どこの中学校もそうなのかもしれませんが、
その日学んだことや、連絡事項を生徒が順番で家庭訪問して届けてくれていました。

ほとんどの生徒が、「早く学校に出てきてください」と手紙を添えて持ってきて、
励ましてくれました。
これはこれでありがたいことだと感謝しています。

ただ唯一、ひとりだけ!不思議な女子生徒がいました。

学校のことには一切触れず、ただ様子を見に来て、お互いの趣味の話をして、帰っていく。
2年生の時は同じクラスでしたから、余計によく訪ねてきてくれましたし、
3年生になってクラスが別々になってからも、全く変わらず、
ただただ遊びに来てくれていました。

学校に行けない娘にとって、早く学校に出てきてくださいと言われることが、
ますますプレッシャーになっていたのでしょう。
この、ただ訪ねてきて話をしてくれる女子生徒は、
この頃の娘にとってほんとうに心が救われる存在だったようです。

そしてその生徒とは、その頃から十数年がたった今は友人の一人として、
時々連絡を取り合っているようです。

中学3年生の担任

中学二年生までは女性教師が担任でした。

中学三年生になり男性教師が担任となり、この先生の指導もあり、
私たち親子はより前向きになることができました。

週一くらいで家庭訪問していただき、少しの時間でも話をして、
これから先のことを真剣に話し合っていただきました。

娘も男性教師のほうが話しやすかったことと、
私自身も、男同士ということで、気兼ねなく接することができました。

当時、緊急時の連絡用にと教えていただきたかった携帯電話の電話番号も、
個人情報は教えられないと女性教師には断られましたが、
この先生は、携帯電話番号やメールアドレスも先生のほうから教えてくださり、
ほんとうに心強い先生でした。

支援学級の先生

知人から、不登校生徒の相談ができて、
登校と同等の出席日数が得られる支援学級を紹介していただきました。

完全な個室で、最初は親子面談から始まり、
娘が慣れてくると、徐々に娘ひとりで面談して話をする。

大勢が苦手な娘だったこともあり、個別指導ということがよかったのか、
徐々に通う日数が増えていきました。

一日2時間くらいの面談(相談)時間ではあり、初めは週2日くらいだったものが、
3年生も終わりを迎えるころには週4~5日と娘が希望して通うことができました。

そのおかげで、出席日数をかせぐことができて、
(この支援学校に行くことで中学校の出席と認められていました)

この時の娘にはここしかないという高校に合格することができました。
もちろん、ここまで来るには、この支援学級すら辞めてしまおうとした時期もありました。

娘はそこでお世話になった先生の一人とは、
今でも年賀状やメールのやり取りがあると聞いています。

支援学校や相談する施設


教育委員会が設置する教育センター教育相談所

厚生労働省の管轄で各都道府県に設置されている
児童相談所保健所精神保健福祉センター
といった場所でも相談できますし、

有料にはなると思いますが、フリースクールなどがあります。

できるだけ多くのところに問い合わせ、比較して、
お子さんが納得できるところを選択してあげるのが一番だと思います。

今は、ゲームやパソコン・スマホ。時間つぶしには事欠きません。
本当にこういうことが好きで、目的をもってやっているならいいのですが、
不登校者の大半は、他にやることがない、
やることが見つからないからやっている場合が多く、単なる暇つぶし、時間つぶしです。

そうするしかないという本人にとってもつらい時期だとも思いますが。

少子化時代と言われる現代ですが、不登校者は以前より増加の一途です。
学校という集団が果たす役割は多々あると思いますが、
それに順応できない人が必ずしも間違っているとは言えない状況になってきていると思います。

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