神経症の体験談(管理者自身の体験談)

神経症の体験談

私自身の神経症体験を、段階的に書き出しています。
悩んでいる人の参考になり、力になれれば幸いです。

当時わたしの神経症は、不安神経症、心臓神経症、と呼ばれていました。
今はパニック障害、全般性不安障害と言います。

社会生活に支障をきたすような神経症でお悩みの方は、この体験談を読んでいただければ、
必ず思い当たることがあり、神経症は必ず克服できると思えるはずです。

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経験したことのない感覚

今から40数年前で、今思えば、遠い昔の出来事と思えるのですが、
私の人生を大きく変えた出来事のひとつです。

大学4年も終わりを迎え、卒業間近かだった時期です。

大学生活を一足先に終えて、帰郷することになっていた先輩の引っ越しの手伝いを
友人と共に済ませ、新宿で別れ、当時アパートを借りていた小田急線の世田谷代田に帰宅中。

その日は平日で、ちょうど夕方の通勤ラッシュの時間帯、
ドアが閉まる直前ギリギリで飛び乗った新宿発の急行の車内は満員状態でした。

当時の小田急線 急行は、新宿を出ると次の停車駅は下北沢で、
(1978年からは代々木上原にも停車しているようですが)急行で約7分くらいだったと思います。
世田谷代田は下北沢で各駅停車に乗り換えて、次の駅です。

乗り込んで、押されて、
ドア側よりかなり奥の座席中央付近の通路まで追いやられてしまいましたが、
それでも、急行に「間に合った~~」というのがその時の気持ちでした。

電車がゆっくり動き出して、2~3分後だったと思います。
全身から血の気が引くというか、痺れるというか、手足が冷たく、
なんとも経験したことのない感覚が全身を襲い、
ほぼ同時に心臓の鼓動が普段の3倍くらいになったのかと思うくらい激しい動悸がはじまり、
死んでしまうのではないだろうかという恐怖のなか、
周りに悟られまいと、体のいろいろな部分をつねったり、
たたいたりして、紛らわそうとしましたが、全く効果はありませんでした。

この状況から一刻も早く逃げ出したい、ただただ電車を降りたいと願うばかりでした。
運悪くその時乗った電車は、先行車両が前でつかえていたのか、のろのろと徐行運転を始める始末。

時間にするとほんの5~6分間でしたが、こんなにも時間を長く感じたことはありませんでした。

どうすることもできないまま、下北沢に到着した瞬間、
転げ出るように電車から降りた記憶があります。
そして、降りて時間がたったわけではないのですが、症状は嘘のように消えていました。

初めて経験する感覚に、何だったんだろうと自分でも不思議でしたが、
そのあとは各駅停車に乗り、直前までの症状は全く出ることなく、
一駅先の世田谷代田に無事到着しました。

その時はこれでホッとしましたが、これが私の神経症との戦いの始まりでした。

自分の過去を振り返ってみました

神経症発症に結びついたかどうかはわかりませんが、子供の頃からの自分の性格や環境を、
記憶のある限り振り返ってみました。

私は神経症の克服に原因を追究することは必要ないと思っていますが、ここではあえて、
何がトリガーになったかを考えてみることにしました。

4歳の頃、子供椅子に座っての食事中、ひっくり返って鍋に突っ込み、
左手の肘から下を大やけど、
救急車すら呼べない田舎町だったので、父が抱っこで1キロ先にある診療所に向かいました。
セーターを着ていて慌てて脱がせたものだから、皮膚が剝けてぶら下がった状態でした。
4歳でしたが、部分的には鮮明に記憶しています。

この体験に加え、私は、もっと幼少期にひきつけ(熱性けいれん)を起こして死にかけたことがあると聞いています。
もちろんこれらは私にとってつらい経験でしたが、
子供にこういう思いをさせたという両親のショックも大きかったと思います。

やけどは当然ケロイド状となって残り、小学校の時は日焼けすると目立つのが嫌でした。

その後の両親の気持ちを聞いたことはありませんが、これらを機に何かにつけて、
両親も私も神経質になったことだけは確かです。

小学5年生だったと思うのですが、学年の初めにある身体検査で、校医に
心臓に雑音があると言われ、精密検査を受けることになりました。


その時同じようなことを診断された数名の同級生と一緒に、
学校から徒歩で行ける病院(というより個人医院)で、心臓のレントゲンと心電図を撮りました。

その後、保護者にも、私自身にも詳しい説明はなかったと記憶しています。
特に何かさらに検査や治療をしたこともなかったことから、
たぶん異常はなかったのだと思いますが、
今思えば、じゃあアレは何だったんだと思うばかりです。

ただこのことが原因? きっかけに違いないと思っているのですが、ここから
自分の心臓の鼓動を異常に気にするようになり、身体検査の時は毎回、心配で、
心臓は早鐘のごとく動悸がするようになりました。

このことは大人になっても変わりませんが、それを異常だと言う医師はいませんでした。
血圧測定では中学生の時から、今なら白衣性高血圧というのでしょうか、
測定するというと、最高血圧が高く表示されました。

根本は自分の弱さがそうさせるのでしょうが、若い時は、
原因を作った小学生の時の校医を恨んだものです。
もし、私のような子供が居たら、自信を持てるような言葉をかけてあげていただきたいと、
全国の医師にお願いしたいものです。

その後の私は、今でいう心気障害だったのでしょう。
ほんの少しの自分の体の異変を気にして、悪いように考えるのが癖になってしまいました。

高校1年生の頃、学校も家族も、住んでいる田舎町も嫌になって、家出をしたことがあります。

特に何かがしたいとか、どこに行きたいではなく、現状が嫌なだけだったと思います。
少ないながら友人も居たし、今思えば何が不満だったのか、いや、不満ではなく何かを漠然と変えたかっただけかもしれません。

勢いだけで、後先の考えもない家出がうまくいくはずはなく、行く当てもないまま
親類に立ち寄った私は、翌日両親が迎えに来て、連れ戻されました。
ただただ心配をかけ、迷惑をかけただけの行動だったと思います。

この頃の私は、何も自信も確信も持てないくせに、
負けず嫌いで、自分勝手な理想主義者でした。

少ない友人は大切にしてきましたが、人に対して好き嫌いがはっきりしていて、
自分が嫌だと思う人とは会話もしませんでした。

何か行動をするときは少人数かひとりが好きで、集団行動が苦手な高校生でした。

高校を最後に、嫌で仕方がなかった田舎生活とは、 
大学に行かせてもらうことで抜け出すことができました。

大学生活は地方出身者の1、2年生は埼玉の教育学部、3年生からは東京の本校校舎に。

2年間を埼玉で寮生活を送ることになった時、
今までの自分を大きく変えてやろうと意気揚々と入寮したものです。

この大学の4年間は、ほぼ自分の思い通り、思い描いた通りの生活で、
怖いものなし、わがままで、嫌なものは嫌、やりたい放題。
将来のことも考えず、毎日が楽しければそれでよかった、そんな生活でした。

卒業間際の小田急線 急行のパニック発作は
子供の頃からの性格や、その後の生活環境、考え方、行動、大学卒業を間じかにして、
先のみえない将来への漠然とした不安がきっかけで、起きるべくして起きたのだと、
今では思います。

最悪の時期

小田急線 急行でのパニック発作後、
環境を変えれば症状は起きないのではないかと考え、引っ越しをしました。
また起こるのではないかという予期不安は常にありましたが、
大きな発作は起きないまま、東京にある薬品の卸会社に就職しました。

何があっても、病院には行かず、自分のこの症状を誰にも話すことはありませんでした。
というより、
当時これが病気かどうかもわからず、こんな症状があるのは自分だけだという認識でした。
パニック障害という言葉すらない時代で、心療内科という医者は存在していませんでした。

この頃一番苦痛だったのは、電車による通勤でしたが、
就職して、新入社員の数日の研修が耐え難い苦痛だったことがあります。

学校と同じように講義が中心の研修中、
なんとも言えない不安焦燥感、肩こり、のぼせ感、めまい感。
じっとしていると、どうかなってしまいそうな感覚を悟られまいと、
机にうつぶせで寝ているフリをして誤魔化していました。
すると、不真面目で、さぼっていると注意されてしまいましたが、
それ以上どうすることもできないまま、自分の症状をこの時も誰にも言えませんでした。

学生時代からアパートの更新のたびに住まいを替え、
就職して2年くらい経った頃、東西線の西葛西に住んだことがありました。
アパートは駅からバスで更に15分くらい行ったところでした。

乗り物が苦手な私が電車どころかバスにも乗らないといけないことになってしまいましたが、
当時はまだ田園地帯と空き地が多く、アパートの前には畑があり、のどかな環境でした。

こんな環境のところで暮らしたら気分も落ち着いていられるし、現に、会社が休日の時などは穏やかで、自分はどこにも異常はないと思えるくらい元気でした。

ところが、この環境を変えるという行動は、結局はごまかしでしかなく、
初めてのパニック発作から約3年経っても、治っていないどころか、
ごまかし、誤魔化しやってきた生活に限界を感じ始めた頃でした。

この頃は神田まで通勤していて、帰宅時の東西線下りは日本橋で乗り換えて、
東陽町までは地下を走りますが、
東陽町を出ると地上に出て鉄橋を渡り、次の南砂町駅の次が西葛西駅、
私が引っ越した頃とほぼ同時期、1979年10月1日に開業したばかりの駅でした。

なぜこの経路の説明をしたのかというと、
どこに引っ越しても、やはり小田急線でのパニックが、
電車に乗るという行動を苦痛にさせていたからです。

電車に乗る条件? (乗ることが出来そうな)として、いつも思っていたことは、
各駅停車(いつでも降りられる)であまり混んでない電車や
誰か知り合いと一緒(依存心が強い)、
また電車が怖いという感情より、それを上回る感情の時は、
比較的楽な気持ちで乗ることができました。

それを上回る感情の時というのは、
たとえば、電車に乗る前に誰かと喧嘩をして、
電車に乗る不安や恐怖の感情以上に腹が立った時など。

もしくは、電車が怖いというそれを超えるような心配事があった時などです。

しかし、症状に対して正しく向き合うこともできていなくて、
逃げて、計らって、誤魔化すだけの生活には違いないこの頃で、
絶えず不安が頭から離れない日々でした。

やっと、これではいけないと思いはじめ、行動したのが、書物で情報を得ることでした。
インターネットなど、一般人には全く縁のない時代。
特別な情報や知識は書物で得るしかありませんでした。

かすかな希望が見えてきた時期

普段から本を読む習慣のない私でしたが、切羽詰まっていたのでしょう。
私が最初に出会った本は、
青木薫久先生の「心配性をなおす本」という本でした。
今販売されている下記の本とは、私の買った時代の物と表層が違っていますが、
こんな世界観があるんだと、自分の症状改善にかすかに希望が持てたものです。

私がこの本を読み漁っていた頃、青木先生は
東京府中にある 根岸国立病院「現在は根岸病院」の精神科医でした。

私はどうしても、この先生に診察をしていただきたく、患ってから初めて病院に行きました。
この時は、さすがにひとりでは心細く、不安が強い時期でもあったので、
初めて他人に訳を説明して、友人に同行してもらいました。

温厚で、優しい先生でした。
先生は森田療法の臨床家で、私の病名は当時、不安神経症、心臓神経症で、
当時はパニック障害という言葉はありませんでした。

薬物は使用しないという治療法で、薬が嫌いな私にはありがたい治療法です。
先生の治療は森田療法を普通の人でも、わかりやすく解説されていて、
軽度ならひとりでも実践できるようにされたものでした。

先生にお会いしたのも、病院に行ったのも、
この時が最初で最後でしたが、私にはかすかな希望が見えました。

その後の私は、いろいろな神経症の本を読み、自分でもできるというものから実践していきました。

私自身が行ってきた克服法を記載しておりますが、基本となったのは青木先生の指導が大きく影響しております。
先生は2020年にお亡くなりになったとネットで訃報を拝見しました。
できることなら、克服を報告させていただければよかったのですが、ご冥福をお祈りいたします。

克服(寛解)の時期

病院は青木先生の一度の診察が最初で最後、神経症の薬は一切服用しませんでしたし、
ひとりの友人以外、親、兄妹、妻ですら、誰にも自分の症状をうち開けたことはありませんでした。

本を読みあさっただけの治療法を独自の解釈で始めたものの、
すぐに、目に見えて改善することはなく、苦しんだ期間は決して短いとは言えませんし、
ずいぶん遠回りをしたと思います。

私なりに解釈した理論と克服法


無駄と思える行動や学習もたくさんしてきましたが、
悩み続けていろいろな治療法や理論を学び、独自な克服法として、
今苦しんでいる人に経験を伝えることができていれば、
決して無駄な時間を費やしたとは思いません。

どんな理論より体験ほど説得力のあるものはないと思っています。

この頃のこと①

この神経症で悩んでいる人なら共感していただけると思いますが、
常に自分が置かれる先のシーンを想像して気にして、
症状が出ないように行動を制限するようになっていました。
それはもう、無意識に言い訳をしている時もあったような気がします。

たとえば、仕事でも、遊びでもですが、電車に乗ることへの不安を気にして、
遊びすら、もっともらしい理由をつけて、キャンセルしたり、
仕事も電車に乗らなくていいように先手を打ってしまうとか。

自分で、それが正解なんだと納得させて、思い込ませるという具合です。
決して悟られないような言い訳をしていたつもりでしたが、
変な奴だと思った人もいたはずです。

今思うと、そんなエネルギーがあったら、もっと他のところへ使えと言いたくなります。

恐怖症とちがって特定なモノへの恐怖はなく、元々明るい性格でしたから、
他人とのコミュニケーションは取れるほうでした。
明るいふりをする! 気の休まる時がありませんでした。

私は人と話すことには抵抗はなかったので、必要以上に人に話しかけたり、
陽気なフリもして、症状が出ないように気を散らす行動もしました。

学習したこと

まだ病院へ行く前の時期では、
何から取り組めばいいのか、どんなことをしたらいいのか、見当もつかず。

この頃の情報収集は、やはり書物でしかなく、
自立訓練法・腹式呼吸・森田療法、
フロイト・ユング・アドラーの心理学関連の本をとりあえず読み漁ったものです。

自律訓練法
意識をある部分に集中させて、たとえば、右手が重くなるとか、お腹があったかくなるとか、順番にいくつかの公式があり、自己催眠状態にして、リラックスさせるというものですが、いくつもの公式に沿って行うような方法は、私には無理でした。

腹式呼吸
不安症状のある時は、特に浅い胸式呼吸になっている場合が多く、
腹式呼吸はいつでも、どこでもできて、副交感神経を優位にさせて、
リラックスできる呼吸法で、効果があります。

森田療法
青木先生の受診のきっかけになった療法ですが、
この療法は、何か行うというより、考え方を変えていくという方法でした。
必要なことは、神経症の症状が多少あっても行うとか、
あるがままとか、自分本位になっていた私に、
今までとは違う取り組み方をすることを教えてくれました。

フロイト心理学
私の解釈は間違っているかもしれませんが、神経症のことをこの心理学に当てはめた場合、
社会生活において、我々が本当にやりたいこと、発言したいことではなかった場合、
学習や規則また倫理的なものであまりにも抑制された時に発症するのが神経症、
と言われるものになるのではないでしょうか。

神経症の原因は過去の自分の意識していない部分にあるということです。

私も自分の過去を思い出す限り書き出してみましたが、
それが必ずしも原因とは思えなくて、
神経症や不安感の原因を全て性的な欲望に求めるフロイトの考えには、抵抗がありました。

ユング心理学
ユングはフロイトの弟子にあたりますが、フロイトの一部の理論に疑問を感じて、
独自の理論を作り上げています。
神経症の原因を過去のトラウマだとするところは同じですが、
過去だけではないと人間をタイプ別に分類し、
さらに、人の心は、個人だけというものでなく、
過去・現在すべての人の心と、つながっているのだという考え方をしています。

この点は神経症で悩んでもひとりではないということで、自分を理解することで、他の人とも協力して人間関係がスムーズになり、安心感を得られるという理論だと解釈しています。
この部分は賛同するところですが、
この頃は、それをどういう風に行っていけばいいのか、わかりませんでした。

アドラー心理学
フロイト、ユングはこの頃から名前だけは聞いたことがありましたが、
アドラーは初めて聞く名前でした。

理論はユングとは正反対とも言っていいような理論で、
全くの個人主義とでもいうのでしょうか、別名を個人心理学と言われる理由です。

過去のトラウマや原因は関係ない! 
人は自分の努力次第でどうにでもなり、なりたい自分になれるというのがアドラーの理論です。

共感できる理論ですが、当時はアドラー心理学についての書物は今ほどはなく、
ここ10年くらいで注目された心理学だと私は解釈しています。
特に下記はおすすめできるアドラー心理学のことをわかりやすく書いた書物です。

この頃のこと②

上記のようなことを学習したからといって、
急激に何かが変わるわけではありませんでしたが、
日常生活が、学習する前とは明らかに違ってきました。

学習する以前
何がいったい不安なのか、はっきりしないのが現在でいう全般性不安障害ということですが、
私はこの頃、不安をなくすことばかりに翻弄していたような気がします。

不安はあってはいけないもの、不安さえなかったらという認識でした。
大学生時代を好き勝手に生きてきた酬いかのように不安は押し寄せてきました。

電車に乗る時は必ず本を読むのですが、本の内容は理解できないし、
本を持っていることで気がまぎれるというだけのことで、内容は入ってきません。

電車に乗る時の本以外に、日常でも趣味を持たなければと、
それほど好きでもないスポーツや漫画本収集、カメラなどと、
本当に好きでもないことを、不安を紛らわすためだけにやっていました。
そして、周りには決して悟られまいと、どこまでも偽りの自分だったと思います。

学習が進むにつれて
本の内容が少しづつ理解できるようになってからは、
本を不安を紛らわすためにだけ持ち込んでいた電車の中で、
自分を客観的にみられるようになり、
自分が、自分が!という世界から本当の意味で世間の事柄に目が向けられるようになりました。
すべてが症状をなくすためだけの行動ではなくなってきました。

私は、どんなに苦しい時も、絶対に薬は飲みませんでした。
医者にかかっていないので当然のことですが、
薬業界に居て、それらの薬の知識があったおかげだと思います。

現在でも、薬の使用については、医師でも賛否両論があると思いますが、
私の場合は、それを貫き通してよかったと思います。

ほんとうは、良き理解者が居てくれることが、理想的ですが、
当時、神経症は今ほど理解されてはいませんでしたし、
医療機関も少なく、情報を得られる場所はほんの一部でした。

そんな経験から、今言えることは、医師でなくても、
たった一人でもいいので、自分を理解してくれる人が居ることです。

家族でも、友人でも、恋人でも、妻でも、夫でも。
そして、頼りきりにするのではなく、
信頼して前向きな行動をとれるサポートをお願いすることです。

私も、このようなことができていたら、もっと早期に克服できていたと思います。

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